人が生きていくうえで欠くことができない「食べ物」をつくるには、「水」はなくてはならないものです。その水を安定して使えるように、新しく桝谷ダムを造りました。ダムより日野川へ流した水は、八乙女頭首工と松ケ鼻頭首工の 2 つの取水施設から地下のパイプラインを通って、田んぼや畑などの農地へ運ばれています。また、工場やみなさんの家の飲み水としても日野川用水の水は使われています。
みなさんが住む町を流れる日野川は、普段はゆるやかに流れていますが、お天気が長く続くと干上がったりしました。また大雨になると洪水を起こし「暴れ川」となりました。そのたびに人々は大きな被害に見まわれました。
特に、日野川やため池の水を頼りにしている農家のみなさんにとって、日照りが続き田んぼが干し上がることは、大きな悩みの種でした。
また日野川やその支流の川は、ひとたび洪水になると町や村を一瞬にして飲み込み、田んぼや畑も一面泥の海と化してしまいました。
用水の取り入れ口として適していた越前市向新保町は日野川が流れを変える場所でもあったため、昔は洪水になると堤防が壊れることがしばしばありました。
そこで 1694 年 ( 元禄 7 年 ) から 1712 年 ( 正徳 2 年 )、鯖江陣屋の幕府代官であった古郡文右衛門 ( ふるごおりぶんうえもん ) は、公費と自分の財産を投じて護岸の工事を行いました。
近くの松ケ鼻山から大きな石を運び、川底に積み重ねて、12 ヶ所もの堤防を築いたそうです。この巨大な岩の群れを岩刎 ( いわばね ) と言い、今も水位が下がるとその一部を見ることができます。
日野川から田んぼに水を引くための水路は、500 年以上も前から造られました。しかし、干ばつによる被害がしばしば起こり、水争いが絶えませんでした。
桝谷ダムをつくる工事は、平成 3 年からはじまり平成 17 年に完成しました。
桝谷ダムは福井県内で4番目にたくさん水をためることができます。
平成 6 年には、日照りが続き日野川の水が少なくなりました。その時は、稲が枯れて農業の人は大変困りました。
そのようなときにも、もう困らないように水をためます。
豊かな生活をするには、水をたくさん使います。
そのようなときにも水が不足しないように水をためます。
工場で製品をつくるには水が必要となります。
工場を増やすには、今まで以上に水が必要となりますが、不足しないように水をためます。
工場が増えれば、働く場所も増えて生活が豊かになります。
平成 16 年 7 月の福井豪雨のような大雨が降っても、ダムで水を止めて、日野川の水をあふれさせないようにして洪水を防ぎ、住む人の命や家を守ります。
桝谷ダムはロックフィルダムです。ロックフィルダムとは、土や岩石をもり立てて作るもので、中央にねんどみたいな細かな土をしっかり固めて水をとめ、外側に行くにしたがって、だんだん大きな岩をつみかさね、細かな土がくずれないようになっています。このようなダムは、水や地震に対して強いのです。
ダムに貯めることのできる水の量は約 2,500 万トンです。この量は、サンドーム福井の約 93 倍分になります。また、ダムの体積は約 340 万トンです。この体積は、サンドーム福井の約 13 倍分にあたり、11 トンのダンプの乗せると 62 万台くらいになります。(ダンプを並べると、北海道から九州を通り越して台湾あたりまで並びます。)
頭首工とは川の水をせきとめて、農業用水を用水路やパイプラインに取り入れるためのものです。
日野川用水では2つの頭首工があります。1つめは八乙女頭首工(南越前町八乙女)で水を取り、主幹線用水路を通って2つにわかれ、1つは福井市清水地区まで、もう1つは鯖江市片上地区まで用水を流しています。
2つめは松ケ鼻頭首工(越前市向新保町)で水を取り、中央幹線用水路を通ってハーモニーホールまで用水を流しています。
頭首工や堰などを造ると段差ができて、魚は川をさかのぼることが大変むすかしくなります。
そこで、魚のためにつくられた道を魚道といいます。魚の種類や川の流れのちがいによって、さまざまな魚道が造られます。
八乙女頭首工と松ケ鼻頭首工あわせて1秒間に約 13 トンの水を取り入れることができます。この量は、200L ドラム缶で約 65 本分になり、みなさんの学校のプールが約 30 秒でいっぱいになります。
頭首工からとりいれた水を田んぼや畑へ送るためのパイプです。パイプは道路の下に埋められており、川を越えるときには水専用の橋(水管橋)で水を送っています。一番大きいもので直径 2.6m もあります。
また、八乙女頭首工から田んぼまで貼りめぐらされたパイプをつなげると約 186km になります。
今まであまりきれいでなかった水を使っていた田んぼへも、日野川のきれいな水が届くようになりました。
八乙女頭首工から福井市清水地区までの距離は 30km 以上あります。途中の田んぼで集中して水を使うと、清水地区などの下流域では十分に流れないことがあるため、水がスムーズに届くように調整する調整槽を設けています。
また、農業用水だけではなく、工業用水や水道用水としてみんなが公平に使えるように、水の量を調整しています。
分水工とは、パイプラインの分水点で、公平に水が流れるように調整するための施設です。
中央管理所には、公平に水が行き渡るように監視や制御を行う水管理システムがあります。このシステムは、遠くにある頭首工や分水工などのゲートやバルブを遠隔操作し、常に流れる量を調整する仕組みになっています。また頭首工で取り入れている水の量や分水工の水の配分量などがこのシステムでは常にわかるようになっています。
干ばつや洪水から田畑や人々を守るために日野川の上流にダムを造ったことで、そこに住んでいた人たちの土地はダムの底になってしまいました。また、上流の人々は、下流に住む人々にも公平に水が使えるよう協力して下さいました。
広野ダムの建設現場には二ツ屋集落が、桝谷ダムが造られた桝谷地区には、大小場集落と田倉俣集落という2つの集落がありました。
ダムの建設により、そこに住んでいた人たちの土地や家はダムの底になってしまいました。木の恵みを受けることができるようになったのも、土地を提供して下さった方々のおかげであることを忘れてはなりません。
上流の人たちは、下流の人が安心して日野川の水を使えるように、工事の時にはたくさんの協力をしてくれました。
そのおかけで、下流に住む人は安定した水を公平にいつでも使えるようになりました。
今まで日野川から水を取り入れていた取水口は全て閉じ、日野川用水を使う全ての人が平等に、そして多目的に利用できるようになりました。